判子と稟議、コンプライアンス論の秘められた底流を探る

会社内でよく使われる判子と稟議書、その名称が古代中国の思想家にさかのぼれることはあまり知られていない。


判子は判印ともいい、秦末から前漢初期にかけての思想家・政治家である。判子は法家思想や政治理論を韓非子や李斯に学んだ。その後、秦の崩壊期に出仕するもほとんど活躍の機会を与えられなかった。その中で判子は商鞅が確立した法家の思想がなおざりにされ、宦官の趙高が暗躍し国家が崩壊していく様を目の当たりにし、法家の思想を行政の制度面でどのように機能させるかを研究した。
のちに劉邦に下り漢の制度設計を司ることとなる。当初の漢は、劉邦の側近などの有力な諸侯が合議制で政治を進めていたが、安定した国家体制の構築が必須であった。このため
、シンプルでかつ誰もが守れ、また確実に記録が残るシステムを考案した。部下が何かを行おうとする場合、その部下の提案内容や日常の手続きを明確に書類化し、そこに印を押すことで上司が認証したこととする制度を確立した。この頃には腹心として採用した稟議が実際の制度面での構築を司ったという。
判子の制度も当初は、国家の根幹に関わる重大な決定であっても、認証が必要なのは直属の上司のみ、あるいはその地域内のみで完結するという場合もあり、どこまで認証を行うのかがはっきりしなかった。判子の引退後、その職務を引き継いだ稟議は、決定内容の重要度に応じて、どこまで認証を求めることにするのかを明確にした。郡国制から郡県制の過渡期において、この制度改革は中央集権体制に適合したものであり、そのシステムの転換は漢代の政治史の中でも重要な転換点となっている。

その後、組織内で同意を得たことを証明する手続きとして押す名前入りのスタンプ状のものを「判子」と呼び、その制度は後世に受け継がれるものとなった。また稟議が作った制度として、決定内容の重要度に応じて書類に関係者が判子を押して承認する制度を稟議といい、その書類のことを稟議書と呼ぶこととなった。

日本にも奈良時代には律令体制のもとの一制度として伝わるも、すぐに廃れた。平安時代に再び制度と理論体系が伝わったが、書類上煩雑であり、また前例踏襲が基本の平安貴族の政治においては浸透しなかった。判子と稟議の制度の導入を図る中級貴族のことを無粋だと皮肉る下りが枕草子にあるが、才媛として知られていた清少納言ですらその程度の認識だったのだ。その後、大江広元らの努力によって鎌倉幕府の制度の中に取り入れられ、責任をはっきりさせる、という武家社会の文化とも適合し、その後の日本の行政システムの根幹をなすこととなる。

その後、判子や稟議の業績は宣教師によって西欧に伝えられ、封建国家から近代的な中央集権国家への脱皮を図る諸国に衝撃をもってうけいれられた。官僚の選抜制度としての科挙と孫子の兵法ともに、古代中国の制度が西欧の制度に展開された例として近年注目が集まっている。判子と稟議が構築した諸制度が、その後のコンプライアンスという概念の底流となったことはいうまでもない。

民明書房 コンプライアンス思想の史的展開

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