今日は何の日:東北の経済開発に尽力した宮沢賢治氏の没後20年

1896年(明治29年)8月27日- 1990年(平成2年)10月22日
日本を代表する化学系企業として知られるイーハトヴの経営者でもあり、晩年は作家としても活躍した宮沢賢治氏が死去したのは今からちょうど20年前の今日。東北地方を地盤とする農薬・肥料メーカーの経営を引き継ぎ、農芸化学を主体とした世界的な企業グループへと発展させた優れた経営者として知られているが、その生涯、とくに青春時代は余り語られることはない。その語られることのない青春には、文学への傾倒と、東北の貧困と、それに立ち向かう宗教的情熱、そして軍国主義の影が色濃く反映されていた。

 岩手県花巻市の裕福な家に生まれた賢治氏は、東北の農家の貧困を目の当たりにしながら多感な少年時代を送った。特に少年時代には鉱物に関心を寄せ、旧制盛岡中学時代には文学にも関心を寄せた。盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を卒業後、上京し日蓮宗系の団体である国柱会に入会、石原莞爾などと関わる。
 農学校講師を経て、病気療養のために退職。快癒後肥料工場の技師兼セールスマンとして活躍。その工学や農業や地質などの広範な知識に加え、教師時代に培った教える技術の高さや、幼少の時からの文学的センスをもって、農民のニーズを吸い上げた製品の企画や、その開発製造、農村という現場に出ての農業指導も含めた営業宣伝などマルチな才能を発揮する。

 この頃から高等遊民的な態度は姿を潜め、エンジニアや実業家や社会活動家としての側面が強くなっていく。それはたびたび病床に伏し常に死を意識する虚無的な精神状態を脱し、自らの専門知識や情熱や人脈をもってして人を幸せにする体験を積み重ねることで、社会に貢献できるという自信を得たからだと日経新聞に連載された私の履歴書では記している。しかし余り語られないことではあるが、死を意識する内向きの宗教的感情が、日蓮宗的な外向きの宗教的情熱に変化していったからと指摘しておかなければならない。
 故郷の農業生産の実態に触れることで、旱魃に悩む北上川流域や、窒素肥料の製造の観点から電力事業や水問題に深く関心を寄せ、TVAの資料を取り寄せ研究したり、故郷を流れる北上川の改修についても提言を残している。この体験を通して農芸化学の分野から、農業土木的なセンスを得て、国土改造による万民の救済という理想に近づくこととなった。農本主義的な傾向も見られるが、関心の広さや、救済の範囲の広さという意味では、国家資本主義との関連を指摘する向きもある。

 かねてより趣味で童話を執筆して生徒や周辺の人に読ませていたが、その中でも「グスコーブドリの伝記」では、最新の科学技術の情報を応用し、それによる農民の生活環境の改善に資することを意図していたことが伺われる。原案では潮力発電所を提唱しているが、物部長穂の『河水統制計画』案に影響を受け、その後の出版された版では多目的ダム建設をモチーフとした作品として仕上げている。主人公は多目的ダムを建設することで、頻発する洪水を防止し、旱魃でも安心なかんがい用水を確保し、また電力を得ることで各家に電灯をともしレコードを聴く文化的な生活を開く上に、豊富な電力で窒素肥料を安価で潤沢に供給するという結末となっている。
 この思いを実現に移すべく、昭和恐慌の際に東北振興を志し革新官僚に接近し、東北振興電力設立に奔走した。また電力ポンプによる灌漑によって、水不足になやむ耕地の収益改善を図った。しかし、革新官僚との蜜月関係は続かず、その後電力国家管理や後に述べる満州での確執もあって袂を分かった。もとより花巻を統べる財閥の御曹司という出は、資本家を最終的には敵視せざるを得ない革新官僚にとっては受け入れられないものであったのかもしれない。

 また国柱会を通して親交のあった石原莞爾の勧めもあって満州に渡り、農業指導を行った。また教え子がいた満州建国大学でも講演を行うなど活発な活動を行った。鉄道に関心があった関係で後に新幹線の父と呼ばれる満鉄理事の十河信二とは、満鉄の経営戦略などの観点で情報を交換した。朝鮮半島では農学者の高橋昇とも親交を持った。
 鴨緑江で建設の始まった水豊ダムの現場を視察し、日窒コンツェルンの総帥である野口遵や後に日本工営を設立する主任技術者の久保田豊らと知遇を得る。また野口らの依頼により、ダム建設などの意義や効用を説いた童話を執筆し、現地で広く読まれることとなった。現在でも北朝鮮では金日成作として教科書に掲載されているとのことである。
 帰国後は満蒙開拓団の募集などに関わることになるが、引き上げ時の悲劇もあって、関係者からは批判されることもある。満州との縁は深く、たびたび満州に渡り視察や指導を行うが、王道楽土とは名ばかりの抑圧的な社会体制を批判、石原莞爾の左遷後は、東条英機・岸信介ら革新派官僚や統制派軍人との対立を深め、以後足を伸ばすことはなかった。

 戦時中は国柱会の活動の一環として国粋主義的な著作を多数発表する一方、戦時統合された東北の農業関連企業を経営する立場となった。革新官僚とは疎遠な関係ではあったが、農民に人気があり農村の実態を知っているはずである経営者、という意味では重宝され、ある種の妥協が成立したのであろう。このため、戦後は公職追放される。
 しかしエスペラント語をたしなむなど軍国主義とは疎遠であったことや、キリスト教関係者とつながりがあるため、すぐに公職追放を解除され、経営者の職に復帰する。このときの問題については多くを語らないが、後に東北電力の会長もつとめた白洲次郎の仲介もあったといわれる。
 
 戦後の混乱期を抜けて水需要の増大や電力需要の増大が社会問題となる中、戦前から構想のあった北上川総合開発を推進する立場となった。国柱会や旧満州の人脈を通して強力に政府に働きかけたことが近年資料が発掘され話題を呼んでいる。一部のダムでは従来からあった発電所の水利権を多目的ダムの発電所に付け替えることで、以前今して豊富な電力を確保することが可能になった。
 中でも地元に近い田瀬ダムには建設中もしばしば立ち寄るなどから深い愛着を寄せ、ダム湖である田瀬湖の観光振興に尽力した。管理棟の前には自ら揮毫したエスペラント語の石碑があるのは有名である。没後20周年を期してダムの宮沢賢治記念館がダムの資料館に併設される形で開設されるので、電気化学工業など産業史に関心がある向きは訪れると良い。
 その後も政財界のつながりを生かして、業績不振の同業他社や関連業種への買収を続けた。好況期にはシェアを犠牲にしても無駄な投資を抑え内部留保を増やし、不況期には不振の同業他社への出資を行うなど、長期的な戦略に基づいた投資を行った。これによりセメントと肥料が中心であった企業は、石油化学や電子など幅広い分野へと進出を行った。また父親が経営していた花巻の財閥も取り込み、観光や運輸などを岩手県で手広く行う企業グループになった。これにより単一の業種では越えられない景気の波を平準化する効果を得ることが出来た。この拡大路線を支えたのが、満州などで培った人脈であり、満州の工業開発で腕をふるった人材が請われて各企業の経営を任され、満州仕込みの合理主義で経営の近代化をはかった。
 この頃より、かつての文学趣味が頭をもたげ。かつて書いていた童話の中から岩手をエスペラント語読みしたイーハトーブを選び、企業グループのブランド名とした。CIが叫ばれるずっと前の話であり、氏の先見性が伺える。
 
 しかし拡大路線もここまでであった。オイルショックによる経済の落ち込みにより、化学や運輸は石油価格上昇によって、観光はガソリン価格の上昇と自粛ムードにとって大打撃を受け、グループ全体の業績は低迷、リストラを余儀なくされた。運がよいことに、満州系の人材を中心に後継者は続々と育っており、会長に身を退くこととなった。
 会長に退いた後はグループは、緩やかな連携の元いくつかに分離された。岩手中心の観光や運輸などの部門は宮沢家の同族経営となり、実質的な持ち株会社となっている。
 以後は故郷の花巻に隠棲し、夢であった童話の執筆に専念するかに見えたが、しかし東北開発への情熱を捨てることはなく、財界活動を通して東北新幹線や東北道の開通を見届けることとなった。
 晩年自身の人生を振り返って語ったところでは、人生いくつか岐路があったが、青年期に病で生死の境をさまよったことが一番大きいという。青年期に死んでいることがあれば世間知らずのしがない文学青年に過ぎず、社会に貢献することはできなかったであろう、というのである。快癒後、仕事が軌道に乗ったときには書きためていた童話や詩の多くの原稿を廃棄してしまったことを悔やんでもいたという。1990年に死去するが、病弱な青年期を打って変わっての長寿であった。近年、このようにスケールの大きな経営者というのは少なくなったが、青年期の文学趣味もまた経営者の視野の広さに資するところもあったのであろう。

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この記事へのコメント

まも
2010年10月22日 15:59
なんという超人伝ww
2010年10月22日 18:12
戦前の経営者だととんでもない人生歩んでいる人は多いですからね。

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